ケアとテクノロジー

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テクノロジーの発展は急激に社会に実装されつつある。これまでの科学技術の研究開発の蓄積は、圧倒的に急激な社会実装化されつつある。その過程の中で様々な軋轢が生じるだろうし、その克服は今後数十年を要することになるだろう。しかし、そのような克服の努力の結果人類がどのような未来を手に入れることができるのかは必ずしも楽観できるものではない。かといって悲観しているわけではなく、大きな努力を要することになる苦難の道であることは確かである。

今日のイノベーションの社会実装化のプロセスにおいて、近代以降蓄積されたコモンセンス(教養、共通意識)が棄損される、もしくは改訂される可能性がある。元々、技術発展は社会のあり方を大きく変化させることは歴史の中でよく見られた現象である。そのような現象が、今後私たちの身の上に起きないとは言えないだろう。私たちが「普通のこと」として受け入れている権利や習慣が技術によって否定される日がやってくるかもしれない。

その際に、私たちはどのような対応をするべきだろうか?デモや社会的運動を起こして、抵抗するべきだろうか。それとも前向きに受け入れて、その中で調整できる限りの調整をするべきだろうか。その答えはまだ私たちにはわからない。



技術経営の手帳 · 技術の統治と人間の統治

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技術(technology)は、人類に様々な可能性を与えてきた。その範囲と影響力の大きさは限度がなくなりつつあるようにみえる。

しかし、技術は自らの意思を持つわけでも、それ自体で成長したりすることもできない。技術は統治することもできる存在である。

技術が人類によって統治可能だからといって、その統治を行えるというわけではない。

技術は、そもそも知識である。知識は人間と切り離して存在することはできない。

そして、技術は科学とは異なる。技術はあくまで科学知識を人間の特定の目的のために再構築したものである。

故に、技術は二重の意味で人間社会から切り離すことができない存在である。

このように人間と切り離すことができないという性質から技術は統治が困難になっている。人間は不可思議の塊で、さらにその人間が複数人集まれば週癌・社会が形成される。

人間一人でも予測や統治が難しいが、社会という単位になるともはや統治は部分的にしかできない。完全に人間や社会を統治するという幻想を持つのが全体主義である。

統治の対象が人間・社会であれば、部分的にでも統治できているのであるから問題ないが、技術は完全統治できなければ問題が生じる。

なぜなら、技術は一粒でも取りこぼせば社会全体、人類の命運を途絶えさせるような力を持っているからである。

技術を統治することは今後、人類の歴史を永らえさせるために構築せねばならない知識なのだ。



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